2016年2月25日木曜日

日 本 文 化 の 根 幹


   「月夜の音色」

                                                 小坂部 雅利 

 祭りとはその土地に暮らす家族の団欒的絆、地域の親睦に営み続ける氏子としての根源があり、年に一度の楽しい神との信仰的交わりの日でなければなりません。しかし今、観光行事性のイベント化が見られている中で、祭りとしての「信仰的本質の真意」とは何であったのか、見つめ直す時期が訪れているようです。今「川越まつりや高山祭り、越中富山八尾の風の盆などの伝統行事」が「異様な光景だ」と囁かれています。
 以前、京都祇園祭で、通訳を同伴して、日本に留学しているイスラエル人女性、エリナ・ハシブさんにお会いする機会が有りました。そこで彼女に言われた言葉は「日本程、安全な国はない。そして日本程、世界中の異宗教が存在している国は珍しい事で、又、自分の国の歴史的伝統と、国民性の民俗行事を大切にしない無関心な国民性も珍しい」と。そして、「私達に観せる為の作り上げられた興行的まつり(イベント化)は観たくないワ、私達が観たいのは、自然の中に有る本物が観たいのです。昨年祇園祭を拝見して二度目ですが、そこに存在する山鉾を目の前に観た時、身体全体が身震いし、両手を山鉾に向け差し上げ心の中で叫んでしまいました。『オオッ!我が文化ヨ!!』と」、そして涙があふれて止まらなかったそうです。
 彼女が涙の出る程感動したのは「我が神、ユダヤの偉大な事を東の遠い国、日本で改めて知った」と言うのです。この言葉を聞いて私はビックリしました。
 この話しを聞いてから私は「今、日本人は毎日の生活に追われていて、思想、宗教の自由に走りすぎ、古い「国の伝統」や「民族的な誇り」や「アイデンティティー」を持つ事さえも忘れているのでは」と思ってしまいました。
 日本の古文書「新撰姓氏録」によると、仲哀天皇の時代に、「弓月」国の王「巧満」が日本の朝廷を公式訪問したとあります。さらに、応神天皇の時代に、先の巧満王の子「弓月ノ君」が大集団を率いて日本に渡来したとあります。(3世紀後期~4世紀前期)その数何と1万8670人でした。当時からすればちょっとした民族大移動です。彼らの大半は養蚕と絹織物業に携わっていました。彼らがいわゆる「秦氏」です。この秦氏がその技術を持っていたから「機織り」という言葉が使われるようになったのです。京都の西陣織りも秦氏が始めたものです。平安京の造成には首長秦河勝(はたかわかつ)を中心とする一族の活躍が極めて大きいのですが、この秦一族、いったいどこから来たのでしょう。実は中国人が「弓月」と呼んだ中央アジアの一小国からシルクロードを東にたどって最終的に日本にたどりついた一族なのです。この弓月国(中国語ではクンシエと発音)は、現在の中国の西端の外側、バルハシ湖の南イリ川付近にあった国で651年~655年ごろに滅亡しています。それは秦始皇帝が築き始めた「万里の長城」の向側の地域にありましたが、元々はアッシリアの地に居た遊牧民の人々でそこから東方世界へ広がった民族であったとされ、彼らは東方基督教徒つまり原始基督教徒と同じ流れに属する人々でした。日本に渡来したその秦氏の人々は、日本の歴史文化に非常に大きな影響を残しています。
 ここで秦一族の信仰と広隆寺に付いて述べますと、彼らは高度な技術力を持ち、古代の日本の産業や土木、外交などにおいて中心的な役割を果たしましたが、この秦氏と関連のあるお寺に、京都太秦映画村で有名な太秦(うずまさ)の地にある「広隆寺」がありますが、スペインのカトリック宣教師にマリオ・マレガ神父という人がいます。彼はザビエル以前の日本にすでに基督教が入っていたことを認めて、それを研究した人でした。1952年の東方学会で歴史学の教授達にその日本研究の論文を発していて、彼によると、秦氏の首長秦河勝によって、603年に建設が始められ、622年に完成した寺はもとは仏教の寺でなく、古代基督教の教会であったそうです。しかし818年に消失した為に、そこから数キロの現在地に再建され、現在は仏教の寺となっています。当初の建設の消失前の教会には窓が無く大きな入口が一つだけある非常にシンプルな構造であって、黒い十字架が一つ付いていただけであったとされています。 それは現在は仏教の広隆寺という寺になっておりますが、その当初の建設当時の面影は残っておりません。
 この広隆寺には国宝第一号の弥勒菩薩像(半跏思惟像)がありまして、私が一番好きな「永遠の微笑」をたたえていて下さるその仏像は、右手を上げてその手の親指の先と他の指一本とを合わせて三角形を作っております。実はこのスタイルと同じ物が大陸の景教の遺跡の中に見られるのです。
 1906年に中国西部「敦煌」で発見され、景教の大主教を描いた壁画が発見され、その大主教は右手の親指の先と他の指一本とを付けて三角形を作り、残りの三本の指を伸ばしていました。それは広隆寺の弥勒菩薩と同じスタイルだったのですが、実はこの右手の形の三角形と伸ばした三本の指とで、景教徒達の三位一体信仰、すなわち、父なる神、キリスト、聖霊の一体性を表す二重の象徴であるとされています。
 このように広隆寺の前進が景教の教会であるとするならば日本の宗教文化について根底から見つめ直す必要があるかもしれません。又、京都の祇園祭は全国の曳山祭りの原点ともいわれておりますが、その中にいくつかの不思議な側面を見つけることができます。
 まず第一には祇園祭の山鉾には、16世紀にペルシア、インドの西アジアなどからのモチーフが描かれ織られたタペストリーがベルギーで織られシルクロードを伝来して来たとされる重要文化財の絨毯が装飾に使われており、その図柄は西アジアの文化そのものであると言え、日本の祭りの原点である京の祇園祭になぜ西アジア、すなわち基督教東方世界のにおいのする物が使われている事実に深く疑問を禁じ得ません。
この祇園祭は平安遷都後に始まり、この平安京造営に貢献した秦氏一族は領地を委託したとされています。もし、この祭りがその影響を大きく受けていると考えられるならば、「京都の祇園祭も、大文字山の火祭りも、私達の宗派も元は基督教です」ときっぱりと言う真言宗の僧侶がいる事もうなずける事実なのです。
 太古の時代から現代の時代まで我国には四季という自然感が有りますが、その季節感は世界的にみて、素晴らしい感覚を私達民族に与えてくれました。それは「美」への感覚的感性であって、それは美術や工芸、音楽などへも大きな影響を表わしているとされています。その中で「音」に付いて考えますと、人間が生活感の中で一番求めているのは安らぎのある音かと思いますが、それは好きな音楽のジャンルによって精神が安定することだと思います。しかし、人間は好きな音楽だけではダメで、その音に相った醸し出す風情がなければだめであろうかと考えますが、しかるにその音楽性の持っている音とテンポの二面性は日本独特の感情的な量感をも生み出す自然性の中から生まれた色合いとも考えられます。 又、音にはかならず、その場面性があり、それは人間の育成には大きな意味を持っていると考えます。
 私は日本に古くから国家の成り立ちと共に存在するとされる民俗行事としての祭りに付いて研究会を立ち上げて、その祭りの文化性に付いて仲間の方々と研究を行っています。私は川越生まれの川越育ちですが、川越祭りの中で一番好きな音の場面は、晴れている日の夕方から夜にかけて、夜空に光る月夜の中、時の鐘の風景の中に祭り囃子が響き渡る時です。その時の月夜の風情の中での山車から奏で出る音色はいかにも神と共感しているようで何とも不思議な気持ちが胸に込み上がってきます。そして、一瞬囃子の音以外のザワメキが消える時が有ります。それって、もしかしたら神という物を感じている時なのかもしれません。日本の神とは固定的ではなく、自然性に感じる(呼び出す)物です。
 祭りの本質は宵山の日に夕方から一中夜かけて、神様を迎える「神降ろし」の神事から始まります。それが「月待ち」の意味で、その後、翌日の朝を迎える事に対する意味が「日待ち」とされています。そこには宵山の夕方から朝のハレの日を迎えるという中に二つの理念性があって、「月待神」と「日待神」の二面性の感念が存在しているとされています、日待ちを迎えたハレの日に山車(曳山)の巡行的曳行行事が行われるのです。
 昔は一日の始まりは夕方から始まるとされておりましたから、夜に関して言えば神秘性のあるロマンチックな物語が多く残っていますし、先にふれた太秦から程近い桂川のそばにやはり彼ら秦一族が創設したとされる酒造の神様を祀る松尾大社があります。そこから程近い所に月読神を祀る小さな神社があります。歴史は古く日本書紀には487年(顕宗天皇3年)任那(みまな)へ遣わされた阿閉臣事代(あべのおおことしろ)が月読神のお告げを得て祭祀したと伝えています。
 ここで私達が古代の祭りを想像するとすれば、アイヌのイヨマンテ(熊の祭)の祭りのように非常に原始的で素朴な火を囲んで行う祭りを思い浮かべると思います。そしてそれを思い表わす風情としては満月の夜に岩山の上でオオカミの遠吠えが山奥深い谷間に響き渡って、単調な古代の太鼓の音がコタンの夜に響きます。これが私達が歴史学から想像できる所の一番古い祭りの風景的風情かと思います。そして彼らアイヌの領地である阿寒湖には天然記念物の毬藻(マリモ)があってそれは彼らに取ってとても神秘的な物でもあります。これは自然の全ての物に神が宿るという縄文人的な最も古い祭りの場面を表したものですが、その後に弥生文化において我国に大陸から帰化した民族が持ち込んだ祭り理念とミックスしたと考えた場合、古代から祭りの中にある音の音色的音響を考えて大陸との共通性を見ると、音階には和聲性音階と旋律的音階との二つあって、和聲性関係に基づいて導き出されたものとして、協和ということが音階構成の基礎になっています。それは近代西洋音階、支那音階、我が国の雅楽音階なども音階的にはこれに属します。又これと同じ音階を作り上げた物は古代ギリシアの音階で、ローマ及び中世のキリスト教音階はそれを用いているとされています。このような音階の流れにおいてもシルクロードの線上にそれはあって、このギリシア音階の組み立てに初めて数理的に研究したのはピタゴラスであるということです。
 これらの大陸から来た文化は、現在の時代においても文化の中にこの流れは続いていて、祭礼の山車の幕などの新調、修復は秦氏の残した西陣の中で川島織物、瀧村美術織物などが脈々と日本の文化を支えておられて、一言でいえばそれは「文化を織る」という重要で大変な文化産業をされて今に伝えています。
 又、古代において八幡神社や稲荷神社の創設は秦氏であるとされていて、それを思えば八坂神社の祭礼として始まった祇園祭からしてそれを曳山文化と考えれば、けっしてその始まりは江戸時代などではないと言え、祭りに参加する標山(曳山・山車の意)という練物が江戸時代に風流という流れの中で進化しただけのことであって、それは神社の歴史からすれば一つの通過点にすぎないことでもあります。川越の氷川神社の創設の歴史を見ても、古事記・日本書紀・出雲大社よりも古い訳ですから…。
 ここで一冊の本を思い出します。京都恵美須神社中川久公宮司著「宮司が語る京都の魅力」です。そこにはいみじくも、「祭りにおいて、神はあくまでも畏怖すべき存在として立ち現われるが故に、『神』とされる。昨今、至る所で『まつり』と銘打ったイベントが行われていますが、そこに神が存在し、その神を奉っていない限り、『祭り』と呼ぶには値しないということに、それはなります」と、記されています。
 最後に私達の研究会は一見、反時代的にも思える頑なさで、祭りのシキタリを重んじ、習慣に固執する理由は、「唯一、権力から手付かずで残った公的行事が祭礼であったといえる文化的歴史」が有るからで、これは我国の憲法第20条で保護されています。まさに研究会の活動真意はそこにあります。昨年京都の祇園祭はイベント化的「まつり」にピリオドを打ち、今から50年前の元の形態に戻しました。神が根底の中心に有るからです。
以上の内容関係から、「日本祭りシンポジウム」のお手伝いをさせて頂いておりますが「振り向けば未来、本当の文化残す努力を」という言葉がシンポジウムの中にありますが、日本全国において、民意の力で色々な団体が郷土文化の為に正しい活動される事を望みます。
 
祭りのルーツを探る

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